日出学園学園史

昭和59年発行「日出学園五十年誌」より転載


日出学園創立と青木要吉先生

市川の菅野の里は、美しい老松に囲まれた閑静な地形に恵まれ、大正初期の頃から多くの文化人が居をかまえていた。これらの人達が菅野にある古刹“御代の院”に因んで「御代の会」をつくり親睦を図ってきた。昭和八年秋、その会の席で青木要吉氏は、「市川町には小学校が一つしかなく、児童たちが溢れているそうだから、昔の寺子屋のような少数主義の独特な小学校を設けては……」と提案され、これが満場の賛同を得た。前千葉中学校長海塩錦衛氏がその企画に当り、翌九年二月、成案なり、早速校名を選定することになった。時恰も待望の皇太子殿下ご誕生の直後だったので『日出学園』と命名するところとなり、校章も波に日の出を配することになった。

学園設立の基礎となる維持会を組織、三月二五日発起人会を開催、会則を決定、文部省に設立認可申請、発起人は青木要吉、東興亮、石井信吉、浮谷竹次郎、内田幾助、海塩錦衛、後藤一郎、杉原半、高橋統閭、竹井俊郎、田中友右衛門、中村勝五郎、西久保良行、保々誠次郎、吉田真、稲越房吉、榎本義重、後藤仁助、菅谷為吉、辻勇、中村庄八、広岡助次郎、横田信次郎、吉岡利光、若山孝三の諸氏であった。
(五十音順)

なお、維持会費は一口百円、三〇余名の会員から約五万円の拠出を得て、更に青木要吉氏からは敷地約千坪の寄付を得、学園設立の中心となり、数名の御代の会有力者の援助が開校準備をスムーズに運ばせた。 九年三月三一日、文部省から設立認可、直ちに児童募集、その他諸般の準備に着手、校舎は青木要吉氏寄付の菅野町一八七一番地に建築することとし、園長は国府台高女の平田華蔵校長に依嘱した。児童募集が遅れたこともあり、志願者は僅か一〇名だったが、平田氏経営の東華幼稚園を移管したので総数八〇名となった。当時の教職員は、園長 平田華蔵、教諭 高山信司、保母 土屋まさ、五十嵐操、園医 吉田真、各氏の陣容であった。
学園は幼稚園二ヵ年、小学校六ヵ年とし、四月六日授業開始した。なお、教育方針は次の通り。

一、一組の人数を三十人以下とし、素質に適応した教育。
一、家庭的雰囲気の中に個性伸長の教育。
一、生活に即した実際的教育。

創立の際、青木要吉氏を援助したのは、海塩錦衛、田中友右衛門、後藤一郎の三氏で、平田華蔵氏は現役校長を買われ初代園長、財務は田中友右衛門氏が担当した。
たまたま、同年一一月三日、市川、八幡、中山の三町と国分村が合併、市川市が誕生したのは奇しき因縁ともいえる。さて、創立者青木要吉先生は、岡山県出身、明治二三年同志社大学卒業、暫らく東華学校(仙台)に教鞭をとったのち米国エール、コロンビア両大学に留学、経済学を修め、帰朝後岡山中学校教頭を勤め、六高講師、山陽高女校長を兼ねた。主として英語、修身が担当だったが、その間の教え子の中には、山梨勝之進(海軍大将、学習院々長)、明石照男(第一銀行頭取)、星島二郎(代議士)、鶴見祐輔(代議士)、仁科芳雄(理学博士、物理学者)、大賀一郎(理学博士、植物学者)、内田百閒(文学者)などがいる。
明治三一年、実業界に身を転じ、株式会社吾妻商会(石炭業)を創始、大正六年市川菅野に居を構えた。

青木正雄理事長の誕生

昭和一三年六月八日、青木要吉氏病気のため逝去、嗣子青木正雄氏がその後を継ぎ、時に四四歳、バイタリティあふれる発展を図った。一六年、法律改正にともない財団法人を組織、二月一七日文部省の認可を得て定款を決定、理事会を結成した。
役員人事は、理事長=青木正雄、理事=平田華蔵、田中友右衛門、竹井俊郎、保々誠次郎、野村芳兵衛、監事=福島輝男、吉田真、の各氏であった。

その後、首脳の異動はあったが、教職員の精励と父兄の協力により、個性あふれる教育の実が稔り、周辺人口の増加に恵まれ児童数も二〇〇名を超えるに至ったが、第二次世界大戦の勃発により児童の地方疎開もあり、学園経営も困難をきわめた。終戦後は疎開児童も漸次復校、三〇〇名に達し二四年度には一学年二クラス制を編成するまでになった。

さて児童、園児の増加により校舎狭溢のため一八年青木理事長は菅野町一七〇番地の土地一一九一坪を無償提供し、建坪一五四坪の幼稚園々舎新築に着手、大戦末期ということもあり物資材の欠乏で非常な苦心を重ねた。一九年三月竣工、小学校から分離移転した。四月二九日の天長節には、創立一〇周年記念式典を挙げ、幼稚園新築祝賀をも兼ねた。

二二年、米国教育視察団の勧告により学制改革を断行、六・三・三制とし中学校までを義務教育とすることとなったが、学園もとりあえず小学校々舎の一部を使用、四月八日より中学校授業が開始された。この設置に伴ない学園の教育理念を一貫するため、各方面より高等学校の増設が要請され、父兄の熱誠なる援助により多額の建設資金が寄付され、新制高校設立準備が進められ、二四年八月、青木理事長より菅野町二八四番地の宅地一七〇七坪を無償貸与され、ただちに中高部校舎の建設着手、木造二階建て三二六坪の瀟洒な校舎が落成した。二五年三月一三日、文部省より高校併設の認可を得て、四月八日より授業開始し、ここに幼稚園、小学校、中学校、高等学校と一貫した教育体系が完成を見た。

二六年、私立学校法の改正により、財団法人を学校法人に改称することになり、学校法人寄付行為(定款)を決定、二月二六日千葉県知事の認可を得、新組織を編成した。法人としての業務はすべて理事会が運営、教育面の運営は教職員が遂行、分離がなされた。

二八年、学園は軽井沢桜ヶ丘に山荘を建造した。同所は青木理事長所有の林地約二千坪の提供を受け独自の設計でユニークな九〇坪の寮舎を完成、同年七月下旬より夏期訓練を開始した。翌二九年には約一千坪の運動場も完備、夏期道場として林間学校における健康増進に大きな評価を得るところとなった。

創立10周年と機関誌「草木」

学園は初期段階では卒業生も極めて少数であったが、一九年四月創立一〇周年時、第一回卒業生田中久雄氏などが中心に同窓会連絡を密にするため「草木」という機関誌を創刊、その後、終戦後の中学、高校の増設にともなう卒業生の増加で、当時の近藤園長の発案で同窓会を作ることとなり、第三回卒業生の土井元水氏などの尽力により二六年一月同窓会結成音楽会を開催し基金を集め、翌二七年九月七日、同窓会総会を開催、会則を決定して日出学園同窓会が誕生した。

三〇年には初めて同窓会名員簿が刊行され、母校と会員、及び会員相互の連絡を図った。名簿は三六年、四二年と益々内容充実、続刊し好評を博した。役員は最初園長を会長に推選したが、のち卒業生を会長とすることとし、第一回卒業生佐生健光氏が会長就任、独自の発展を遂げた。

一方、私立学校は父兄から成る後援会があって、物心両面からの学校への援助が常であることから、学園でも創立の際「維持会」が組織され設立資金を拠出したことは前に記したが、終戦後、中学、高校併置のため「後援会」が結成され、多大の貢献を得た。さらに母の会もあり、児童福祉のため、温い手がさしのべられてきた。

のち学制改革の際、文部省の方針でPTAが各学校に誕生、本学園もこれを組織、もっぱら施設面を後援、母の会は主として児童の福祉増進に寄与してきた。二九年春PTAと母の会の合同が要望され、種々協議を重ね両者が発展的に解消、新たに“ひので会”を結成、ここに清新なる「父母と先生の会」が発足することとなった。

ひので会の発足

学園創立以来、学園と家庭との連繋が極めて緊密なこともあり、ひので会も発足以来活発な営みをつづけている。毎年学年初めには会則により各学級の父兄、教員の中から幹事を選出し、その中から会長、副会長、常任幹事を決定、夫々の部署に就き、学園祭、運動会などの行事に際し、ひので会の役員が準備、後始末などに絶大なる協力を惜しまないことは特筆に値する。会員は文化、手芸、音楽、スポーツなどの部班をつくり、各自の修養と親睦に資している。本会成立以来の歴代の会長、副会長は次の通り。
年 度 会  長 副会長
二九年 水上 友吉 麻生 磯次
三〇年 森志 久馬 太田 寿雄
三一~二年 大久保 康雄 矢代 信司
三三年 村瀬 雄次郎 馬場 幹雄
三四年 太田 寿雄 馬場 幹雄
三五~六年 磯部 静男 麻生 正
三七~四一年 馬場 幹雄 島野 英一
四二~三年 島野 英一 青木 英二、寺内 慎一
四四年 青木 英二 寺内 慎一、柳沼 彦恵
四五年 寺内 慎一 山勝 清一、落合 靖一
四六年 寺内 慎一 金田 功、落合 靖一
四七年 落合 靖一 中川 雄三、岩井 一三
四八年 臺 常雄 中川 雄三、磯部 尚雄、佐藤 恵宣
四九年 中川 雄三 斉木 武雄、磯部 尚雄、佐藤 恵宣
五〇年 中川 雄三 平田 善信、磯部 尚雄、遠藤 喜一
五一~五二年 平田 善信 野崎 昭二郎、磯部 尚雄、遠藤 喜一
五三~五四年 磯部 尚雄 野崎 昭二郎、菊池 元良、古川 清
五五年 磯部 尚雄 山田 勝重、和田 順次郎、菊池 元良、古川 清
五六年 山田 勝重 小林 政明、和田 順次郎、石津 春海、古川 清
五七年 山田 勝重 萩野 敬治、和田 順次郎、岡野 実、宮嶋 良寛
五八年 萩野 敬治 太田 敏治、山崎 倫男、岡野 実、宮嶋 良寛
五九年 岡野 實 作本 春男、赤塚 忠昭、宮嶋 良寛、山田 忠男
六〇年 宮嶋 良寛 太田 勲、赤塚 忠昭、山内 邦義、清水 工経
六一年 宮嶋 良寛 神保 誠、赤塚 忠昭、山内 邦義、清水 工経
六二年 宮嶋 良寛 神保 誠、赤塚 忠昭、山内 邦義、岩崎 仁
六三~平成元年 宮嶋 良寛 赤塚 忠昭、関 康道、鹿島 隆雄、岩崎 仁
二~三年 赤塚 忠昭 川本 強、関 康道、鹿島 隆雄、土橋 正彦
四年 赤塚 忠昭 小林 茂、関 康道、鹿島 隆雄、菊池 友宏
五年 赤塚 忠昭 関 康道、鹿島 隆雄、島根 大真、菊池 友宏
六~八年 赤塚 忠昭 鹿島 隆雄、黒住 明彦、島根 大真、安藤 正年
九年 赤塚 忠昭 黒住 明彦、大鳥居 武司、中村 詔孝、安藤 正年
一〇年 安藤 正年 喜久田 龍、大鳥居 武司、門倉 伸昌、鈴木 進
一一年 大鳥居 武司 喜久田 龍、久保 満晃、門倉 伸昌、鈴木 進
一二年 大鳥居 武司 喜久田 龍、田中 文雄、鈴木 進、本間 英太郎
一三~一四年 大鳥居 武司 大澤 成美、田中 文雄、篠原 正幸、本間 英太郎
一五年 大澤 成美 中田 久雄、染山 教潤、篠原 正幸、本間 英太郎
一六年 大澤 成美 中田 久雄、染山 教潤、山崎 芳夫、市原 宏昭
一七~一八年 中川 剛 杉田 英明、三井 健、山崎 芳夫、市原 宏昭
一九年 杉田 英明 三井 健、飯沼 一彦、山崎 芳夫、小坂 一史
二〇年 張間 雄次 古谷 光裕、飯沼 一彦、篠原 正幸、小坂 一史
二一年 張間 雄次 古谷 光裕、飯沼 一彦、篠原 正幸、戸田 朋宏

創立20周年記念式典と松友会のスタート


 創立以来、大戦の打撃もあり苦難の途を歩んだ学園も二九年、創立二〇周年を迎えた。一一月七日屋外運動場、多数の来賓、父母の列席のなか、厳粛な式典が挙行された。小柳園長の式辞、青木理事長の挨拶、知事、市長など来賓各位の祝辞、そして創立者青木要吉先生の教えを受けた山梨勝之進氏(前学習院長、海軍大将)の、学園創立が恰も皇太子殿下のご誕生と時を同じくしていることは日出学園の洋々たる前途を象徴するものである、の言葉に参加者全員が感銘を覚えた。つづいて永年勤続者(教職員六名)、学園功労者二五名の表彰を行い、夫々感謝状並びに記念品が贈呈された。
 
 永年勤続者
土屋 まさ、原田 学、金田 正吉、片岡 みよ、大和久 満寿子、野村 章子  
 学園功労者
石井 勝次郎、遠藤 清太郎、岡 兼一、海塩 錦衛、鹿島 俊雄、金子 泰蔵、金田 正吾
木下 茂、黒沢 潤三、近藤 時司、後藤 一郎、後藤 信孝、桜井 丈、佐藤 源、多賀谷 洋吉
竹井 俊郎、田中 友右衛門、土井 元水、野村 芳兵衛、平田 華蔵、保々 誠次郎、松本 伊兵衛
水上 友吉、吉田 真、若王子 卯三郎
 三一年三月、これまで学園の教職員間の同僚会といったものがなかったが、小柳園長の発意で松友会が結成され、会員の厚生、親睦を図ることとなった。総務、厚生、文化、購買の四部を置き、専任教職員はすべて入会、夫々の事業に任務をはたした。厚生部は会員の福祉、厚生を図るため資金の貸出、慶弔、慰問などを掌どる。文化部は文化活動とリクリエーション、芸術鑑賞、旅行、スポーツなどを行なう。購買部は生活用品、学用品などの購入、販売を掌どる。この松友会の資金は会員の会費、貸出金の利子、購買部の利潤をもって行なわれる。

 学園も年々生徒数の増加にともない、校舎の増築が必要となり、ことに講堂は各校とも著しく手狭まとなり、全員収容が不可能となった。三二年四月、学園側の施設拡充計画をたて急を要する施設から漸次建設に着手することになった。第一期は講堂兼体育館、第二期は小学校本館、第三期は中高部特別教室及び幼稚園保育室を新築することになった。

 この資金調達に関して理事会、教職員、父兄役員ともども協議の末、初の試みとして学園債の発行にふみきった。債券目標額は二千万円、一口一万円、年利五分として募集開始、幸いに父兄の協力で総額一千五〇万円の応募を得て、愈々施設の拡充に着手するところとなった。
 新講堂は三二年七月、旧講堂をスクラップし同年一一月二〇日には軽量鉄骨組みモルタル仕上げの立派な講堂が完成し、入学式、卒業式、学芸会、雨天体育場などなどイベントに活躍するところとなった。

学園のイベントと文化活動


 その間、生徒たちの質実剛健を求めて、心身の鍛錬と耐乏の生活を克服しようと、三〇年から早朝耐寒訓練を実施、一月下旬、大寒二週間は毎朝六時から七時までマラソン、ラグビー、体操を実施、次いで夏期訓練として、男子生徒は七月中旬より二週間軽井沢山荘に合宿、早朝マラソン、スポーツ、体操など、午後は山荘付近の土地の整備を行い、雑草を切り拓いて道路を通したり、バレー、テニスコートを造成、土木作業に汗をした。女生徒たちは同期間中、女子修養講座を設け、華道、茶道、料理、テーブルマナー、幼児保育、ダンス、書道、芸術鑑賞、社会見学などに努力した。

 創立当初から日出学園は個性伸長を最大の教育方針としており、このため図工、音楽には最重点課題としている。三二年四月から美術、音楽、書道の三部門に個人指導を取り入れ、優れた素質発掘を求めている。

 美術は図工担当教諭が、音楽はピアノ、バイオリンの二部門で学園はもちろん専門家を招いて懇切に個人指導を行なっている。書道は市川市の吉田浩先生に依頼、その高弟の先生方が指導に当った。

 一方、正規の学科の他、学識経験者を招き文化講演を開催した。二九年小柳園長就任以来、ほとんど毎年文化講演を開催、生徒はもちろん、ひので会々員の方々にもこの種の講演を行なった。講演していただいた諸先生たちは、安部能成、式場隆三郎、岸田日出刀、古賀忠道、清水幾太郎、宮城音弥、矢野健太郎、八杉竜一、糸川英夫、金田一春彦、串田孫一、家永三郎、日高六郎、望月衛、原田三夫、八田一郎、石垣純二、羽仁説子、石田アヤ、塩月弥栄子などであった。(順不動、敬称略)


創立25周年と青木理事長の急逝


三四年一二月一五日、学園創立二五周年記念式典が行なわれた。菊かおるなか、県知事、市長はじめ各界の来賓約一〇〇余名、父兄、卒業生多数の列席のなか、小柳園長の学園二五年の足跡、来賓前学習院長山梨勝之進氏の「中学・高校時代の努力こそ、人生を支配する大きなエレメントがある」の訓話、そして第一回卒業生佐生健光氏の創立時のなつかしい思い出話に感銘が集まった。

つづいて学園功労者(二五名)、永年勤続者(一二名)の表彰が行なわれた。
 
 学園功労者
竹井 俊郎、黒沢 潤三、水上 友吉、鹿島 俊雄、麻生 磯次、大久保 康雄、畠山 蔵六
土井 元水、小柳 篤二、太田 寿雄、馬場 幹雄、村瀬 雄次郎、矢代 信司、宇多 謙一
田島 喜美子、桜井 丈、木下 茂、遠藤 精一、和田 善次、田久保 義男、和田 八百吉
磯部 静男、宮木 益吉、武田 正登、浅井 吉次郎  
 永年勤続者
土屋 まさ、片岡 みよ、大和久 満寿子、原田 学、野村 章子、金田 正吉、佐川 弘、新美 茂子
蓮尾 義勝、四之宮 芳郎、田中 和歌、吉原 貞子
 三八年四月六日、一三年以来実に二五年間学園の運営に心血をそそいでこられた青木理事長は、早朝心筋梗塞のため自邸にて急逝された。
 氏は極めて孝心篤く、先代が創立された学園を物心両面にわたり多大の犠牲をいとわずその発展に専念され、戦時は物資窮乏のなかで幼稚園を移築されたり、軽井沢山荘の建造はもちろん学園の発展への功績は枚挙に遑がない。

 後任には畠山蔵六氏が就任、理事長の令嗣青木登氏が新理事に就任された。

創立30周年記念と青木登理事長


 三九年三月三一日竣工した学園の中枢、中高部校舎でその落成式を兼ね、創立三〇周年記念式典が挙行された。多数の来賓を迎え小柳園長は、創立以来の学園の教育方針、家族主義、少数主義、一貫教育、男女共学、教経分離の徹底を強調。畠山理事長の挨拶ののち、来賓者の知事、市長をはじめ教育長、各学校代表、ひので会々長、同窓会々長、生徒総代などの挨拶後、学園功労者(一四名)、永年勤続者(二一名)の表彰を行なった。

 
 学園功労者
後藤 信孝、水上 友吉、鹿島 俊雄、麻生 磯次、大久保 康雄、矢代 信司、太田 寿雄
村瀬 雄次郎、磯部 静男、馬場 幹雄、麻生 正、島野 英一、後藤 久仁子、岸田 勝子  
 永年勤続者
片岡 みよ、大和久 満寿子、原田 学、野村 章子、蓮尾 義勝、佐川 弘、四之宮 芳郎
田中 和歌、新美 茂子、吉原 貞子、小柳 篤二、金田 正吉、西田 信彦、立川 修治
四柳 昇、林 長男、饗庭 武、長谷川 光枝、石井 洋子、上原 百合子、松口 時枝
 四三年五月、少壮有為の青木登理事長が就任した。学園は元来青木要吉初代の卓抜なる識見と資財提供により創立されたのであれば、青木家嫡流の理事長就任が妥当と、定款通り、三八年四月以来先代正雄氏の急逝により暫定的に畠山氏が理事長就任していたが、嫡男登氏も年歯も長じ経験も積んだこともあり就任が決定した。
 青木登理事長は昭和二年一二月一三日生まれ、東京音楽学校を卒業後、二五年より四ヶ年間学園中高部で音楽担当教諭として教育実務を経験、学園の実情に即した運営に光るものがあった。

 四四年一二月、この年学園創立三五周年に当り、幼稚園の職員室、小学校の小体育館の落成を兼ね、一二月八日小規模な創立記念式を挙行、永年勤続教職員に感謝状を贈った。
 
 永年勤続者
原田 学、野村 章子、佐川 弘、蓮尾 義勝、四之宮 芳郎、田中 和歌、西田 信彦
新美 茂子、吉原 貞子、小柳 篤二、竹花 忍、饗庭 武、長谷川 光枝、上原 百合子
武田 百代、立川 修治、林 長男、田中 恒三、西河 イシ、奥津 直子、中島 慈舟
三瓶 雅義、中村 梅子、渡辺エイ子

校舎施設の整備


 昭和四七年三月に入り、昭和四九年度には当学園が創立四〇周年を迎えることになる。これを記念し、事業として何をなすべきかが問題となった。当時中高部の一部校舎と小学校の東校舎とは老朽化のうえ狭隘であった。
 そこで施設・設備を整備し、将来にわたる教育条件を整えることが急務であるとの考え方から、次のような事業計画が審議された。

その一は、中高部の特別教室を鉄筋四階建てに増改築(一六〇〇㎡)し、備品の充実をはかる。
 (図書室、生物室、物理化学室、音楽室、書道室、視聴覚室)
第二は小学校東校舎の増改築として鉄筋三階建(二千㎡)とし、跡地を運動場の拡巾に充てる。
 (普通教室六、視聴覚室一、図工室ニ、図書室一)
第三は幼稚園の改築である。

 これらの事業を年次計画による継続事業として実施するにしても、学園自身の財政努力だけでは到底困難であった。そこで在園生のご父母、同窓会、ひので会等のご理解とご協力を得ることになった。
 早速四月下旬には、記念事業推進委員会と実行委員会を発足させ、幾度か趣旨説明会を開き、募金活動に入った。幸いにも父母、関係団体等の温かいご理解とご協力が得られ、事業への支援体制が固まった。事業の推進委員長は大原三郎氏、副委員長は渡辺忠吉、中川雄三の両氏であった。この三氏には事業推進のため、日夜をわかたず献身的にご協力いただいたことを銘記し、感謝する次第である。


中高部特別教室棟の増設


 中高部の特別教室の建設は昭和四七年三月、㈱丸石工業により起工され、同年一二月竣工した。これにより中高部の校舎は一挙に面目を一新し、教科指導が一層充実することになった。また、視聴覚教育の備品も充実し、LL装置により英語指導の効率化が著しく進むことになった。


小学校新館の建設


 第二の事業である小学校東校舎は、まさに老朽化が進んでいた。それをとりこわし、新館の増築工事は昭和四八年七月、㈱大城組の手によって建設されることになった。ところが起工式を終え、いよいよ杭打の段階に入った頃、折悪しく石油ショックにより経済界が混乱状態に陥った。工事はその影響をもろに受け杭の入手難のため一事中断されることになった。しかし業者の努力により、工事は九月より再開され、翌年五月には竣工の運びとなった。この工事の設計者は元同窓会長の佐生健光氏であり、デザインは極めて近代的、スマートな建物に仕上げられた。小学校はこれにより、中庭を中心に西校舎に低・中学年を配置し、新館に高学年を配し、校舎、施設、設備を効率よく活用できるようになった。


幼稚園の改築


 第三の事業である幼稚園の改築は、東京外郭環状道路問題に阻まれ、本建築は都市計画法による制約を受け、行き詰った。止むを得ず昭和五〇年度に父母の待合室を改造し、ママゴトコーナーとした。なお五五年度において狭い教室の拡張工事を実施し、内部塗装を行い、明るくしかも広々とした教室にした。

 最近、多くの幼稚園の園舎は鉄筋化され、運動場もアスファルトで固められたところが眼につく。ところがわが幼稚園は、自然的な環境にとりかこまれ、園庭は緑の芝生と砂地を配し、その中に和風様式の温かさを感ずる木造園舎。まことによき配置であり、落ちつきのある教育的自然な環境である。


中学校校舎の新設


 従来中高部の生徒は、中高部本館に収容されてきた。この建物に中学校六学級、高校一二学級を入れるには余りにも狭隘であった。そこで昭和五三年九月、特別教室棟南側に新校舎を増築することにした。その規模は、二四四四㎡(普通教室六、特別教室ニ、体育室、職員室、生徒会室)である。その外事務棟四八〇㎡を建設した。

 工事は㈱奥村組、㈱大城組の共同企業体の手により同年七月に起工し、翌年七月には完成した。

 九月には中学校がここに移転し授業を行なうことになった。事務棟には、事務室、理事長室、応接室、会議室の他同窓会室、ひので会室が設けられ、学園の管理、事務等の集中化と関係団体等との緊密なる連携をはかることになった。

 中学校々舎の増築により、雑居ビルの感さえあった中高部の本館内部は一層整備され、すべての教育活動が円滑に行なわれ、教育の効率化が促されることになった。


創立40周年記念式典


 昭和四八年六月以降記念式典の構想を検討することになった。まず学内の代表者会議を開き論議を重ね基本的なものをまとめた。その結果、
 1 記念式典は昭和四九年六月八日の創立記念日に実施する。
 2 基本的には学園を中心に、同窓会、ひので会が協賛団体として加わり協力する。
 3 式典は時節柄にかんがみ厳粛にして、雰囲気は和やかなものにする。
 4 実行委員会を組織し、委員長にひので会長臺常雄氏を依嘱する。
等のことが確認された。
 その後四九年四月以降臺実行委員長を中心に実行委員会を結成し、準備活動が活発に進められた。とくに臺氏は式典のマニュアルを作成し、各係に提示し、万事円滑に事を進めた。このマニュアルは学校の行なう諸行事の経典としても高く評価される立派なものであった。

 式典の当日は朝から快晴に恵まれ、学園をとりまく新緑はひときわ映えたち、まことによき式典日和であった。会場にあてられた講堂には各界からの来賓、職員、父母、同窓生が多数列席され、式は厳粛に行われた。
 参加者全員による君が代斉唱の後、臺実行委員長の開式の辞により式典の幕は開かれた。次ぎに青木理事長が挨拶に立ち「四〇周年を迎えることができたのは、皆様のご協力の賜ものである。施設設備の充実とともに今後は教育内容の充実をはかり、お子さま方をより立派にお育てするように努力する。今後学園を発展させるために一層のご協力を賜わりたい。」と述べた。
 ついで小柳名誉園長は「創立以来四〇年のうち後半二十年間は学園の仕事に直接たずさわってきた。・・・・・・・・・・・・本学園の校是(こうぜ)である少数主義と一貫教育を貫くことはむずかしくなってきているが、この教育目標の達成に努力してほしい。」と訴えた。ひき続き神田園長は「学園の沿革を述べ、今後一層の努力を払い学園の発展を期したい。」と決意を披瀝(ひれき)された。
 この後、後記の方々に対して感謝状が贈呈された。来賓紹介の後、知事、市長、公私立学校校長会代表、ひので会長等の祝辞があり式典は閉じられた。
 式後別室において祝宴が行なわれ、和気あいあいのうちに歓談、学園の発展を祈って散会した。

 
 感謝状贈呈者
 
 一、四〇周年事業推進委員会
(委員長)大原 三郎、(副委員長)中川 雄三、渡辺 忠吉  
 二、工事関係者
(大城組取締役)佐々木 芳興、(佐生設計事務所代表)佐生 健光  
 三、歴代ひので会長
馬場 幹雄、島野 英一、青木 英二、寺内 慎一、落合 靖一、臺 常雄  
 四、同窓会関係
(同窓会長)佐生 健光  
 五、永年勤続教職員関係
原田 学、蓮尾 義勝、佐川 弘、四之宮 芳郎、野村 章子、新美 茂子、西田 信彦
饗庭 武、長谷川 光枝、上原 百合子、田中 和歌、竹花 忍、中島 慈舟、田中 恒三
三瓶 雅義、西河 イシ、奥津 直子、武田 百代、中村 梅子、伊東 俊子、丹野 稔
本田 健夫、尾身 善治、楯岡 直子、中川 シゲ、是木 ミヱ子、小川 江美、金子 泉之介
立川修治

園長の異動


 七代目園長重田先生は、昭和四四年六月以来健康を害されていたが、病をおして学園の発展のため尽された。しかし遂に四六年三月退任された。
 同年四月には後任者として神田順治先生が着任。先生は東京大学教育学部の卒業。厚生省体力局勤務を経、その後東京大学教養学部の教授となられた方である。在任中は長く野球部の監督を勤められたスポーツマンであると同時に日本的な野球評論家として著名な方である。就任後は明朗闊達にふるまわれ、課外活動を重視され、児童生徒の健康の増進と体力の増強をはかるとともに、学力向上に尽された。

 先生の在任前半は、石油ショックによる影響を受け、学園財政は極度に悪化の道を歩んでいた。昭和四九年度予算編成の後、僅か四ヶ月しか過ぎていない八月に、人事院の公務員給与の勧告が行なわれた。その内容は給与の大巾アップのみならず、人材確保に関する法律の適用をうけたアップ額を併せると、一挙に四三%のベースアップをその内容とするものであった。
 従来学園の教職員給与は、公務員給与に準じて実施してきた関係上、人勧ベースに準じて給与の改善をせざるを得ない立場に追い込まれた。そこで園長は理事会にはかり、緊急措置として一〇月より授業料値上げによって急場をしのいだ。

 ちょうどこの頃、全国の私学は一斉に立ち上がり、学納金は上限に達していることを前提に、私学財政の健全化を促進するため、私学立法による国の助成を仰ごうとの運動が盛り上がった。その結果昭和五〇年法律第六一号(私学振興助成法)が成立した。この法律による振興助成補助金は年々増加され、現在は帰属収入全体の三〇%を占めるまでになり、財政は一応安定を増してきた。このような経過の中で園長はたえず先頭に立たれて活動された。
 財政の基盤確立とともに、いよいよこれから教育内容の刷新にとりかかり、園長としての手腕を発揮しようという矢先き、五四年三月勇退されることになった。

 次いで九代目園長前川峰雄先生は同年四月着任された。先生は当時中京大学大学院(体育学科)の教授をされていたが、初年度は兼務ということで園長職に就かれた。先生は東京文理科大学卒業後母校に残り、教授、体育学部長、学長職務代行者として活躍された方である。また、日本体育教育学会長として、体育指導の頂点に立たれた方である。

 昭和五五年四月中高部を解体し、中学校、高等学校の二校に分離した。
 その理由は、中等教育六ヵ年の体系を守りながら、それぞれの責任分担を明確にし、手作りの教育を一層細やかに実施したいとの念願からであった。

 一〇月下旬に至って、先生は体の異常に気づかれ、順天堂大学病院に入院された。その後一二月下旬には小康を得られたが、体の不調は長く続き、五六年五月再度入院された。学園関係者一同の再起への願いも届かず、八月二二日、遂いに逝去された。温和な性格のなかにも厳しさを持ち、実践型の先生によせる期待は大きかったが、病によって先生を喪ったことは学園にとっても大きな損失であった。

 学園では先生のご逝去を悼み、市川市教育委員との合同葬を九月二〇日、信濃町千日谷会堂で行なった。先生とのお別れを惜しんで集まる者凡そ千二百人、先生の徳が偲ばれる思いがした。
 その後一〇月末までは青木理事長が園長職務代行者として執務した。

 昭和五六年六月一一日、大山信郎先生が第一〇代目園長として着任された。先生は東京大学医学部の卒業であり、在学当時は世界的な眼科の碩学石原忍先生の高弟であった。後年東京教育大学学長として敏腕を奮われた方である。とくに昭和四〇年代は大学紛争や筑波移転問題を中心に大学がゆれた。先生は難局に背を向けず、渦中のなかにいて事態を収拾し、新設筑波大学の生みの親とも云われた方である。象牙の塔の中におられたというのに、それに似合わず理論型であると同時に教育行政に明るい方である。着任早々より父母の教育的要求を察知され、学園の六〇年代の教育構想をたえず練られている。五〇周年以降の学園の進路は先生の双肩にかかっているというのも過言ではないだろう。なお先生は五八年四月、永年に亘る学術、教育に尽くされた功績を認められ勲二等瑞宝章をうけられた。


育英奨学制度について


 昭和四九年、当時のひので会長中川雄三氏は学園の質的充実策の一環として育英制度の必要性を主張し、自ら先駆に立って基金の募集にあたった。この運動が学園関係の父母によるゴルフ同好会を動かし、趣旨に賛同をいただくことになった。その後、平田、磯部、山田の各ひので会長が中川氏の意志を継がれ、ひので会の予算に基金を計上するとともに、例年行なうバザーの利益金を基金に積みたてたのである。昭和五一年度には基金が二百四〇万円に達したので、平田会長はひので会組織の中に育英部を創設し、奨学精度を発足させた。支給対象は日出学園に学ぶ園児、児童、生徒であり、「品行方正、学業優秀にして他の模範となる者」若しくは「家族の疾病、不慮の事故、家庭の経済的事由により修学が困難な状態になった者」のなかから選考し、一人月額五千円を支給することになった。

 基金の積立ては順調に進み、五六年度には一千万円に達した。そこで千葉県教育委員会の認可をうけ、三井信託銀行(現中央三井信託銀行)に申し入れ、法人格の公益信託の契約を結んだ。
 これにより寄付行為の免税化ができ、年間約五〇万の運用経費が利息でまかなえることとなった。元金の目減りなしに健全な運営がなされることになった。
 顧みると学園の有為な人材の育成と緊急救済のため、前後七年の間、代々のひので会長はじめ善意の父母の方の努力と協力があったからこそ、この制度が出来上がったのであることを銘記したい。


日出学園創立50年記念事業


 本項については、当時の雰囲気を後世に伝えるに一番適切と考え、昭和五六年三月一二日発行、“ひので会報第七九号”第一面の記事をそのまヽ転載する。


アメリカ教育を直接体験した青木要吉先生が皇太子ご誕生を記念し、市川のこの地に日出学園を創立された昭和九年三月三一日から間もなく半世紀になろうとしています。すなわち、創立五〇周年が三年後の昭和五九年三月三一日にやって来るのです。
一昨年の四五周年は、この五〇周年にと、一切の行事を行なわず、備えて参りました。
学園、同窓会、ひので会では、昨年より五〇周年記念事業準備委員会を発足させ、討議を重ねて参りました。この度、その記念事業の大網が決定され、玆にその概要を発表、みなさまのご協力をお願い致します。
五〇年記念事業計画の大要は次の通りです。

(一) 体育館の新設
日出学園のグランドは、小学校十八学級、中学校六学級、高等学校一二学級の教科体育だけでも十分に実施するには、余りにも狭すぎますので、一度に数クラスの授業が出来る体育館を新設し、兼ねて、剣道場にも使える中講堂を設け、屋上に幼稚園、小学校のプールを備えます。
(延床面積二、八二七㎡)
必要とする建築費・・約六億円
(ニ) 野外活動センターの改修
現在ある軽井沢の山荘は昭和二八年建設のもので、老朽化がはなはだしく、これを改修して一学年最高百六〇名を一度に収容できる完備した施設とし、都市化影響のはげしい子供たちに自然を十分親しませ、学園が使用しないときには、山荘として関係者に利用して頂こうとするものです。
(約一一、〇〇〇㎡)
必要とする改修費・・約一・五億円
(三) 日出学園五〇周年誌編纂事業
(四) 記念式典
理事会では、これに要する費用、七億五千万円の裡、一億五千万円を自己資金、二億円を私学財団からの借入金及び補助費で、残りの四億円を寄付金をもって当てることに致しました。
近日中に、正式に“五〇年委員会”を発足させ、会長には前川園長、副会長兼事務局長に桜井小学部長、募金委員長を富山新一氏にお願いし、委員には、日出学園理事及び評議員、教職員、同窓会評議員、松籟会会員とひので会の53・54・55年度幹事全員の就任を予定しております。
さらに“五〇年委員会”の下に“実行委員会”を設け、委員長に磯部ひので会会長、副委員長には河野事務局長、茂木同窓会会長、菊池ひので会副会長と他に一名の四名、委員には教職員八名、同窓会、松籟会、ひので会より各三名の就任を予定し、人選もほぼ決っております。
この実行委員で、五〇年記念事業計画(募金、五〇年記念誌、記念式典の三事業)を実際に推進、実施してゆくわけです。
第一の体育館の新設は、五八年秋の完成を予定し、一年前の着工。体育館完成後に軽井沢山荘の改修着工、五九年三月三一日には、五〇年記念誌の発刊と記念式典の開催というスケジュールで、来る新学期四月から活動が始まりますが、なかでも一番重要なのは約四億円の募金運動です。いづれ、五〇年委員会から正式にお願いがあると思いますが、在園児、在校生のご家庭には一口六万円二口以上をお願いすることになります。二名以上在学のご家庭には二口プラス三万円以上のご寄付を仰ぐことになります。
お支払いの方法も一括払から、一二回分割まで用意する予定でございます。
近隣の私学では最近、寄付の噂を随分耳にしましたが、日出学園では、四〇周年以来、寄付もお願いせず、授業料の値上げも最低に留めて参りました。
この五〇年記念事業募金に奮ってご協力ください。
なお新体育館の敷地は、現在の体育館、プール、北側廊下、更衣室、温室、螺旋階段部分全体で、正規サイズのバスケットボールコート2面、一二六㎡の放送施設完備のステージ、体育器具置場の四部屋を含む総敷地面積はニ、〇一四㎡。屋上のプールは各コース一・七m巾で長さ25m、四コース、小学生、幼稚園児童を対象に計画されています。

「本記事序文に、前川園長草案になる“五〇年事業の寄付金募集趣意書”の巻頭を引用させて頂きましたことを付記します。」
(昭和五六年三月一二日発行、“ひので会会報第七九号”より転載。)


※基本的に「日出学園五十年誌」の表記をそのまま転載致しました。内容につきましては、五十年誌記載のひので会役員にその後の役員を付加しました。また、不要と思われるものにつきましては省略しました。


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